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■季節の写真 (過去の写真はこちら写真(c)木原浩

山藤や短き房の花盛り 正岡子規


写真家の木原浩先生に、藤の写真をご提供頂きました。


藤と言えば、藤原氏です。遠藤、佐藤など「藤」が付く名字の由来は、藤原氏にあることが多い印象です。


元々、藤原氏の子孫の氏(本姓)はみな「藤原」です。平安時代では、源平藤橘が四姓と言われ代表的な氏でした。藤原氏や源氏の一族が増えるにつれて、藤原氏全体への所属意識が希薄になる一方で、より小さな一族に所属する意識を持つようになり、名字を名乗るようになりました。これは、同じ名字の親戚を札幌の伯父さん、八王子の伯母さんと呼んだりする感覚に近いのかと思います。


昔の名前はちょっと複雑です。例えば、足利尊氏の正式名称は、「征夷大将軍正二位源朝臣尊氏」ですが(足利尊氏願経の発願文に記載がある。死後贈従一位・贈太政大臣)、

「征夷大将軍」は官職、「正二位」は位階です。

「源」は、氏(本姓)で、清和源氏です。そのうちの河内源氏の源義家の子源義国の子孫なので河内源氏義国流とも呼びます。義国が足利荘の預所(荘園の管理者)となり、その子義康から荘園の名前を取って、足利氏を名乗るようになりました。


「朝臣」は、姓(かばね)で「あそん」と読みます。八色の姓(やくさのかばね)の一つですが、源平藤橘はみんな朝臣になったので他の氏族と区別する機能を失い、使われなくなりました。

朝臣以外の姓では、越智氏の宿禰があります。『明治中興雲台図録』という明治初期の政府高官を紹介した本で、「工部卿兼参議賞勲事務局長法制長官正四位越智宿称博文朝臣」と伊藤博文の紹介があります。これによれば、伊藤博文の氏(本姓)は越智、姓は宿禰となります。

なお、末尾になぜか朝臣が付いています。公卿は氏・姓・諱(名前)の順に名乗りますが、四位以下は、氏・諱・姓の順に名乗ります。つまり、この本では、伊藤博文の氏を越智宿禰、姓を朝臣と考えているようです。

ちなみに、公卿以上の場合、末尾に「卿」又は「公」を付けます。この本では、大久保利通を「内務卿兼参議従三位藤原朝臣利通卿」と紹介していまます。


藤原氏の名字の話に戻ると、遠藤や佐藤は、地名(又は国司など地名由来の官職))+藤原を名字にしたものです。

遠藤は、遠江+藤原、佐藤は、佐渡又は佐野+藤原です(左衛門尉+藤原という由来もあります。)。伊藤は、伊勢+藤原です。ただ、木工助+藤原で工藤を名乗る一族が伊豆の伊東で伊東氏を名乗り、その後、伊藤に漢字を変えた伊藤氏もいます。


地名を名字にする場合、その発祥の地を本貫と呼びます。

鎌倉時代に関東の御家人が地方の地頭職をもらうなどして全国各地に移動したので、御家人由来の戦国武将の本貫は関東・甲信・静岡であることが多いです。例えば、毛利は厚木市の毛利、大友は小田原市の大友、蘆名は横須賀市芦名が本貫です。


足利系の戦国武将は、足利一族の支配地域である下野・上野・三河に本貫があったりします。例えば、山名は高崎市山名町、里見も高崎市の里見、吉良は西尾市吉良町、細川は岡崎市細川町に本貫があります。


織田の本貫は越前町織田にあります。織田氏は越前町織田の劔神社の神主一族で、室町時代に越前守護を務めた斯波氏に仕えます。斯波氏が尾張守護になったので、織田氏も尾張守護代となり、尾張に根を張ることになりました。


神奈川や伊豆は、そこかしこに有名武将の本貫があるので、探すと面白いです。

(2022年5月 神戸)