実績

■季節の写真 (過去の写真はこちら写真(c)木原浩

つながれし牛に杏の花ざかり 青柳 志解樹


写真家の木原浩先生にあんずの写真をご提供頂きました。


あんずで思うこと

あんずで思うのは,昨日も食べた杏仁豆腐です。日本の杏仁豆腐は,ほとんどアーモンドパウダー入り牛乳寒天ですが,ちゃんと杏仁を使う作り方もあるようです。杏仁とは,あんずの種の中身のことで,あんにんともきょうにんとも呼びます。梅を食べるときの種の殻を潰して中身を食べたりしますが,これを仁といい,あんずの仁なので杏仁というわけです。

杏仁をつぶすと白い粉が得られるので,これに水・牛乳とゼラチンか寒天を加えてできあがりです。中華食材の店に行くと,杏仁霜という杏仁豆腐の素が売っていて,杏仁を使っているというのが売り文句ですが,アーモンドパウダーなど使っている場合も少なくないようです。僕は,何度か杏仁霜で杏仁豆腐をボウル一杯作ったことがありますが,なかなか固まらず,うまく行った! 美味しい !という経験はないです。


杏林の故事

杏仁は,元々,薬でした。杏林大学もあんずの故事にちなんだ名前です。

中国の三国時代に,董奉という仙人がいました。今の福建省にあった候官県の人です。山間で医者をしていました。治療費は,重病人からはあんず5株,軽傷者からはあんず1株を受けとっていたそうです。数年で10万株以上のあんず林ができました。虫や獣が遊ぶようになり,草が生えなかったそうです。人々があんずを取るようになったのですが,董奉は,「欲買杏者不須来報径自取之得将穀一器置倉中自往取一器杏」(杏が欲しい者は,報告に来なくてよい。穀物を倉に一皿入れてくれれば,あんずを一皿取ってよい。)と言っていました。


中には,穀物をちょっとした置かないのに,あんずをたくさん取る者もいたようです。そんな不届き者をあんず林の3,4頭の虎が家まで追い掛けてかみ殺したということがありました。家族が杏を持って董奉に謝罪に行ったところ,董奉は,不届き者を生き返らせたと書かれています。董奉は,あんずと交換した穀物を貧者救済に使ったり,旅行者に与えたりして,年に三千石(3000人分の年間消費になる。)を使ったそうです。

董奉があんず林を育てて,そのあんずで医者を続けたという故事にちなんで,医師のことを杏林と呼ぶようになりました。


この話は,『神仙伝』という書に出てくる話で,四庫全書に入っていて,原文は,インターネットで読めます。

その後,『太平広記』という仙人や妖怪の話しを集めた本に引用されて有名になったそうです。ただ,太平広記では,話しがちょっと変えられていました。例えば,年に三千石(原文では,三千斛)の施しをしたという話しは,年に二万石余りに「盛られて」います。


董奉のその後

『神仙伝』の杏林のくだりは以上ですが,董奉の話しは続きます。今回訳してみたのですが,意味が分からなくて面白いので,共有させてください。


県令には,精神を病んだ娘がいました。県令は,董奉に,もし,治療できたら,娘をあなたの嫁にやりましょうといいました。董奉は,これを承知して,6尺(約1.8メートル)ある白ワニを連れて娘に会いに行きました。そして,白ワニを人に切らせると,娘の病はすぐに治り,娘は,董奉の妻になりました。董奉と妻には子どもができなかったので,養女をもらいました。養女が10歳になった時,董奉は,雲の中に入り仙人となりました。残された妻子は,あんずを売ったお金で暮らしました。あんずを狙う不届き者は,虎が追いやりました。養女は成長して婿を取りました。婿は,董奉の墓から衣服や物を取ったので,ある人が,仙人になった董奉にこのことを告げました。董奉は,仙人なので衣服は不要だといいました。

董奉は,この世でわずか100年しか生きなかったが,その顔色はいつも30歳くらいに見えたそうです。


この話,意味がよく分かりません。白ワニは,どこからか連れてこられてきただけで(どうもヨウスコウアリゲーターという川のワニのようです。),娘にとりついていたわけではないです。なのに,娘の家で切られてしまいました。かわいそうです。婿のくだりは,本当に余計で,せっかく,董奉の残したあんず林のおかげで妻子は不自由なく暮らして行けたといういい話なのに,悪い婿が董奉を貶めます。物欲のない董奉の仙人振りを強調したのだとは思いますが,後味が悪くなっています。同じように余計だと思ったのでしょう太平広記ではカットされていました。賢明な編集と思います。

(2020年5月 神戸)