実績

■季節の写真 (過去の写真はこちら写真(c)木原浩

母と子と拾ふ手許に銀杏散る 高濱虚子


写真家の木原浩先生に銀杏の写真をご提供頂きました。


銀杏と言えば,源実朝と公暁です。内藤鳴雪に「銀杏の花や鎌倉右大臣」という句があり,鉄道唱歌にも「八幡宮の石段に立てる一木の大鴨脚樹別当公暁のかくれしと歴史にあるは此蔭よ」があります。これは,鶴岡八幡宮の大銀杏の脇に隠れていた源頼家の息子公暁が叔父の実朝を襲い殺害したことにちなみます。


しかし,手元にある愚管抄を見ても,公暁が大銀杏に隠れていたという記載はありません。実朝殺害の記事には,「実朝は神前の石段を下って、つき従う公卿が整列して立っている前を会釈しながら、下襲の裾を引きずり、 笏(文武官が束帯を着用した時に手に持つ長さ三十センチくらいの板)を持って通り過ぎていきかけた。その時実朝に、修行 のいでたちで兜巾(山伏がかぶっている頭巾)というものをつけた法師が走りかかり、下襲の裾の上にのって、一の刀で首を斬り、倒れた実朝の首を打ち落としてしまったのである。」とあり(慈円著,大隅和雄訳『愚管抄全現代語訳』(講談社学術文庫,2012)),法師=公暁が大銀杏に隠れていたとの記載はありません。


そうすると,いつから大銀杏に公暁が隠れていたという話になったのか疑問です。そこで,論文を探したところ,柴田松太郎「鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏(隠れ銀杏)」(「地学教育と科学運動」41号43頁,地学団体研究会,2002年11月)に行き当たりました。

同論文によると,愚管抄だけでなく吾妻鏡,増鏡にも大銀杏の記載は見当たらず,17世紀以降の文献に銀杏に関する記載が表れるため,①14世紀半ばには銀杏は植えられておらず,②17世紀には銀杏は大樹となっていたので,③銀杏が植えられたのは,14世紀末から15世紀初め頃と推測できるとのことです。


したがって,1219年の実朝殺害時,公暁が隠れていたと言われる銀杏はなかったと考えることになります。

(2020年12月 神戸)