実績

■季節の写真 (過去の写真はこちら写真(c)木原浩

大空にのび傾ける冬木かな 高濱虚子


写真家の木原浩先生に、立山連峰の朝焼けの写真をご提供頂きました。


立山連峰といえば、佐々成政のさらさら越えです。


戦国武将佐々成政は、天正12年の小牧・長久手の戦いに、織田信雄・徳川家康陣営で参戦しました。

当時、成政は、越中一国の領主として、羽柴秀吉陣営の加賀半国・能登領主の前田利家及び越後領主の上杉景勝と対立していました。


ところが、天正12年11月、秀吉と信雄との間に講和が成立し、続けて家康も秀吉陣営と停戦してしまいます。梯子を外された佐々成政は、同月又は翌12月、居城のある越中の富山城から家康のいる遠江の浜松城まで、継戦を直談判しに行きます。この時、越中・信濃間の針ノ木峠ルートを用いたといわれています。このルートの別名をさらさら越えといい、現在の立山黒部アルペンルートです。


成政の富山出発を旧暦天正12年12月上旬とすると、西暦では1585年1月なので、真冬です。つまり、真冬の立山連峰を縦走して、信濃大町に抜けたということになり、本当に、さらさら越えがあったのか、実際のルートはどこなのか、が議論されてきました。


富山城から浜松城に抜けるルートは、いくつか考えられます。


雪の影響がひどくなさそうなのは、北陸道を糸魚川まで行くか、親不知の手前で山越えをして根知城まで行き、そこから現在の大糸線沿いに信濃大町・松本まで千国街道を南下するルートです。糸魚川・根知城は秀吉方上杉景勝の勢力圏なので一見、通過は難しいそうです。もっとも、根知城の城主村上義長が成政に便宜を図ったという説があります。ただ、根知城から信濃大町までは景勝の勢力圏なので、かなり危険なルートです。

距離が近いのは、富山と飛騨高山を結ぶ飛騨街道を南下し、高山から美濃・尾張に抜ける尾張街道のルートです。飛騨は成政方の姉小路頼綱の勢力圏ですが、美濃は秀吉の勢力圏で、しかも、尾張の信雄は既に秀吉と講和しているので通過は難しかったと思います。


飛騨から木曽に抜ける江戸街道ルートは(さらさら越えの後に整備されたようです。)、木曽谷の木曽義昌が秀吉方なのでこれも難しい。


有力なのが、飛騨・信濃ルートで、高山又は神岡から平湯温泉まで行き、そこから鎌倉街道(平湯街道)で松本に抜けます。高山から平湯温泉の間の平湯峠は現代でも冬期通行止めのようなので、神岡から高原道(たかはらどう)経由で平湯温泉に行き、安房峠(あぼうとうげ)を超えて、家康方の小笠原貞慶の勢力圏である松本に行くことになります。

松本まで行き着けば、家康勢力圏の伊那街道を南下して、浜松城までスムーズです。しかし、安房峠も平湯峠と同じく冬期通行止めなので、さらさら越えよりはましですが、冬期の峠越えが現実的なのかどうか疑問は残ります。


いずれにせよ、成政が天正12年12月に富山から浜松まで往復したのは間違いありません。偉業です。しかし、家康は、成政の説得に応ずることはありませんでした。翌天正13年の越中征伐で、成政は秀吉に降伏し、成政の小牧・長久手の戦いは終わります。

(2022年2月 神戸)